近年、幻の映画と言われていた作品が解禁されましたね。
篠田正浩監督映画「夜叉ヶ池」(1979年)
を題材にします。
映画「夜叉ヶ池」(1979年)の音楽演出
「原曲の作曲意図」と「映画の内容」との共通点
この作品のラストで
「津波が押し寄せて村が水の底に沈んでいく」
というシーンがあります。
ここで使用されている音楽は
ドビュッシー「前奏曲集 第1集 より 10.沈める寺」が、
故 冨田勲氏によるシンセサイザーのサウンドで演奏されているもの。
(生楽器を模したシンセサイザーの音という意味ではありません。)
「沈める寺」の作曲意図として言い伝えられていることがあります。
(以下、「ピティナ調査・研究」より抜粋)
聖歌や鐘の音とともにもやの中からゆっくりと現れ、
また次第に海に沈んでいき、姿を消していく、
そういった巨大な情景が一筆書きのように描き出されていくスケールの大きな作品。
(抜粋終わり)
上記、
映画の中で
「津波が押し寄せて村が水の底に沈んでいく」
という結果になったのは、
簡単に言うと
竜神が池から出ない条件である「1日3度の鐘」をつかなかったからです。
「沈める寺の作曲意図」と「映画の内容」との共通点を感じますよね。
ひょっとすると監督自身は
沈める寺の作曲意図を知っていた上で
あえてラストシーンにこの音楽を用いたのかもしれません。
「非日常」と「シンセサイザーの音」との共通点
著者 湯浅譲二(文化人数名との対談形式)
出版 青土社 出版年 1981年
という書籍の中で、
篠田正浩監督の「夜叉ヶ池」に関する対談コメントが掲載されています。
一部だけご紹介します。
(以下、抜粋)
ぼくは、イニシエーションということをテーマにしたかったんです。(中略)
あの映画の日常というのは、
頭のシーンにあらわれていた蒸気機関車の列車の中だけなんです。
列車が通過した以後は、ぼくにとって全部がイニシエーション。
(抜粋終わり)
この文章を読んだときに、
「非日常」ということを
「生楽器ではないシンセサイザーの音」にも聴き出そうとしたのかもしれないと感じました。
「元々はクラシック作品である音楽をシンセサイザーで演奏する」
それのみで
この映画全体の音楽は構成されています。
「ただ単にシンセサイザーの音がいいと思ったから」
などといった理由ではなく、
このような「音楽を演出する」という意図はあったはずです。
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